パリやフィレンツェのように河の流れる街は美しい。セヴィージャもまた然り。
このセヴィージャで2年に1度開催されるフラメンコ・フェスティバルがビエナルだ。 

最近のビエナルでは添乗員よろしく生徒さんを率いて街を歩いている姿を見かける同年輩の踊り手たち(例えば西村美雪さんや大塚千鶴子さん)も、1998年のビエナルでは身軽な立場。
私も生徒3人のアパルタミエントの予約などしてやったが、つかず離れずの行動で自由。公演を見た後は皆で楽屋に押しかけたり、BARで語り合ったりと楽しいひと月を過ごした。

ちょうど親しくなった若いアルティスタたち、エヴァやホアン・アンドレス・マジャにイスラエルやラファエル・アマルゴが皆ビエナルの舞台で活躍しているのもいい気分だった。
ラファはマリオ・マジャの舞台でロサリオ・トレドと一緒に振付を担当し、白いスーツを着て帽子を目深にかぶり椅子に足を投げ出した
グァヒーラの出だしの姿はとろけるような男振りー当日高熱を出し、楽屋では痩せて蒼ざめていたが。

フェスティバルの最初の3日ほどはアルカーサルの中庭で大御所たちの唄の祭典。
毎晩カンテを堪能したが、ある夜舞台が退けてからバールで呑もうとしたら、さっき聴いたばかりのEL CHOCOLATEがギタリストのラモン・アマドールとふたりでテラスのテーブルにいた。

「今、聴いていたんですよ。」と気付いた私が言うと、一緒に呑もうと椅子を寄せてくれた。私を横に座らせると「バイラオーラだろ。シギリージャでもタンゴでも何でも踊れそうだな。」と酔いに濁った異様な光を放った目でジッと見る。さらに「明日ロンダで唄うから一緒にテアトロに行こう」と迫って来る。「一緒にテアトロに行く」と言ったって、まさか舞台で踊れ、ということだとは即座に考えも及ばす単にナンパされたのかと思った私は怖くなって、周りに助けを求めたがちづこさんではダメだと言う。
それにチョコラーテの鼻にかかった声はあまり好きではなく 同じステージで唄ったマノロ・マイレーナの方が好きだったんだもん。
嘘のような話だが、その場にいた大塚千鶴子さんの他に相田照恵さんも証人。

その後、2002年のビエナルでか、マヌエラ・カラスコ相手にシギリージャを唄ったチョコラーテを聴いて、ああこれがシギリージャかとチョコラーテを振った(!)ことを後悔したのでした!!

そう言えば、昔からカンタオールにはもてたような気がする。
尤も、カンタオールにはナンパ好きが多く、ギタリストにはむっつり助平が多いという定説(?)があるから、あまり当てにはならないが。

昨年行ったら閉まっていたレストラン ‘TORRE DEL ORO’ではイスラエルが手を振って合図してくれたことは前に書いたが大勢のスペイン人と日本人で一緒に騒いだ。この時、私の前にチョコンとしおらしく座っていたのが、グラナダのコンクルソで優勝したばかりのロサリオ・トレド。
次回は彼女について少し書こう。

20/3/05 記         
~~~ある日のアルティスタ(15)エル・チョコラーテ
<ビエナル シリーズー1>

1984年のビエナルではオスタル(ホテルより安い下宿屋みたいな所)98年ではアパルタミエント(アパート=ウイークリーマンション)2000年と2002年では中級ホテルの屋根裏部屋のような狭くて裏側のシングルルームに滞在した。で、2004年では表側のツインルームに昇格し、パラドールの旅もした。

パラドールは昔の城や僧院を国営のホテルにしたもので、高いと思い込んでいたら そうでもなかった。
日本からでもイベロジャパンを通して予約できる。

生徒とカディスのパラドールに泊り、彼女達が帰る日にマラガまで夫を迎えに行き2泊してセヴィ-ジャに戻り、数日後にトレドと憧れていたアルマグロに泊った。
太平洋に面したカディスも地中海を見下ろすマラガもそれぞれ良かったが思い出深いのはトレドである。

トレドはマドリ(マドリッド)から簡単に行けるので、いつでも行けると思い、1度も行ったことがなかった。イスラム教とユダヤ教とキリスト教の建物が仲良く並存する所で 大聖堂の内部の彫刻も素晴らしく、名物マサパンもおいしくて、やはり一度は訪れるべき街である。

ここのパラドールでは予約時に見晴らしのいい部屋を指定しておいたので、まさに最高級の部屋。広いバルコニーからあの絵葉書通りの中世の絵画のようなトレドの街全体が見渡せる。
椅子に掛けて夕焼けに染まる頃から、星が輝き大聖堂や教会がライトアップされるまで眺めて、時のたつのを忘れ、ディナーのテーブルが満席になってしまったほどだ。

部屋係のボーイは小柄で早口(アンダルシアに比べて、カスティージャは早口ではないか?)‘新婚夫婦のために最高の部屋をご用意しました’なんて言う。新婚に見える? ‘新婚じゃないわよ’というと、‘でも奥様は若くて美しいから…’などと言葉を濁す。
カディスの人たちは、見るからに開けっぴろげで冗談ばかり言っているが、カスティージャの人間は概して謹厳実直な顔で、とぼけたことを言う

ロサリオ・トレドの何代か前はここの出自なのだろうか?彼女の刻む細やかなサパテアードは、あのト、ト、トという早口の音に呼応する。
それに澄ました顔でコミカルな味を出す彼女のキャラクター無しでは2002年のハビエル・ラトーレの舞台は成立しなかっただろう。

98年のビエナルの時、レストランTORRE DEL OROで同席した後イベリアでやった ROSALIO TOLEDOのクルシージョに参加した。
開かれるクルシージョの講師がどんどん若くなって行くがロサリオは息子より年下。ここまで来ちゃうと、どうとでもなれもう平気だ。新しいものに出会いに行くー外国人だからできる特権かもしれない。
スタジオに行く途中でロサリオに会ったので声をかけたら恥ずかしそうにしている。どっちが先生か、わからない感じだった。

この時習ったシギリージャは本当に細かい音の連続だった。身のこなしも面白かったけど。
小さく敏捷な彼女の動きを捉えて、そのまま2001年の舞台で踊った。もう2度と再現できないと思える程、緊密な音は正確に入った。
ところがビデオで見ると拍手が小さい。このロサリオのシギリージャとか、96年のエヴァのソレア・ポル・ブレリアとかの短いけど音がきっちり詰っている緊張感そのものの曲はよくこんなに踊れたものだと自分でも思うのに、そっけないほどの拍手だ。

それに比べて、マチルデ・コラルのカンティーニャとかマノロ・マリンのシギリージャみたいなマントンやバタ・デ・コーラの大振りだけど中味のスカスカな曲には、満足したような拍手が延々と続く。

なんか、違うんだよなあ。

22/3/05 記        
~~~あの日のアルティスタ(16)ロサリオ・トレド
<ビエナル シリーズー2>

2000年のビエナルは短期間、生徒も誘わずにひとりで行った。
ひとりで歩いていると、いろいろ面白いことがある。

炎天下の通りを歩いていると、広場を横切って来た男が‘¡QUÉ PENA ME DA! ’と吐き捨てるように言う。
ちきしょう、何てこった!=何という苦しみを神は与え給うか!
-まるでフラメンコの歌詞そのままに。

またある昼下がり、レッスンの帰りだったが、その時は白い斜めの線が2、3本入った黒のTシャツ、黒い葉っぱの模様がついた白いジーンズ風のパンツに黒のサンダル オフホワイトの日除け帽といういでたちだった
向こうから歩いてきた、いわゆるセヴィージャによくいるタイプの男が私の前で立ち止まり、‘何て素適な女性なんだ!こんなに魅力的な女性は今までお目にかかったことがない’みたいなことを手を広げて表情たっぷりに延々と語る!

擦れ違い様に‘GUAPA’=いい女 と声を掛けられるのは、皆さん時々経験するだろうが こう立ち止まって、切々と説かれるのは悪い気がしない。
尤も、他の機会にバス停で一緒になった女性によると、セヴィージャでは海岸以外で帽子も日傘もささない、というから、帽子のせいだったかも。

この時は、昼食をとったサンタクルスのレストランのテラスのカマレロ(ボーイ)にも ‘PRINCESA’=王女様と呼ばれた!
いくつに見えたのか知らないが。

そう言えば日本ではもう何年もナンパされていない。もう恐くて声を掛けられないか?
男も女も携帯の画面を見るので忙しく街での出会いなんてないもんなあ。
スペインではもういいお年頃のおじいちゃまでも優しく付きまとう。
だから女たちはイタリアやフランスやスペインに行って、自分が女であることを再確認する。

この頃からビエナルに訪れる日本人の練習生の数が急激に増したのではないか?
スタジオでもテアトロでも街中でも大勢見かけ、時にはお世話するはめになり、声を掛けられた。
派手なことはしていないので、顔は知られていないだろうと思っていたが、九州の人とか 仙台の人とかにも割と知られていた。

この年は、タジェール・フラメンコのRAFAELA CARRASCOのクルシージョを受けた。タラントのマルカールやレマーテをいくつかやった。
クラスにいたイタリアの女の子に「あなたの踊り、好きだわ」と言われた。昔から、スタジオの他のクラスの人や、他のスタジオの人に受けがいい。

私がこのクラスを受けていた中で好きなのは、森田志保さん。
以前碇山奈奈さんの舞台で踊っていた彼女を見て、妙な体験をしたことがある。
彼女が余りに私が踊りたい通りに踊るし、その表情も私とそっくりなので、舞台で踊っているのが私なのか、客席で見ているのが私なのか、身がふたつになってしまいそうで、吐き気がしてきた。
これは本当にそうなのか、それとも彼女が表情たっぷりなので皆がそう思うのか、定かではないが、多分この両方なのだろう。

ラファエラの真価がわかったのは、2004年のビエナルのクリスティーナ・オヨスが振付けに協力したという舞台だった。
オヨスは私が最初に憧れたフラメンコ舞踊家だが、この日の舞台ではあまり彼女の色を感じられず、ラファエラが光っていた。
特に無伴奏で、ロルカ(?)の詩を口ずさみながら踊ったあの間(ま)には驚かされた。

22/3/05 記       
~~~あの日のアルティスタ(17)ラファエラ・カラスコ
<ビエナル シリーズー3>  

ここで一挙に1984年のビエナルまで溯(さかのぼ)ろう。
第3回のビエナルだろうか、この頃はバイレとカンテとトケ(ギター)の年が交互にあったように思う。

会場もセヴィージャの郊外が多く、バスかタクシーで遠くまで行った記憶がある。MANUELA CARRASCO を初めて見たのも、郊外の城の中庭のような所だった。
今でこそイベリアの蒲谷さんの招聘で日本でも毎年のようにカラスコを見られたが 当時は伝説の人に近く、スペインでも彼女の踊りに接する機会はめったになかった。

ショーの開始を待つ間、満天の星空に流れ星がいくつも飛ぶのを膝に抱いた息子と数えていた。
星の思い出でいうと、復帰前の沖縄のしかも伊江島にいたことがある。
夜ふと見上げると、全天が星だった。遠い星・近い星すべてが身体を貫いて地面に突き刺さるように降って来て、思わずその場にへたり込みそうだった。怖くて震えた。これがベスト・ワン。
2番目はインドのタージマハール。闇に白く浮かび上がる愛姫のために造られ、そして王と共に葬られているタージマハール、空には波打つ銀河、木陰に舞うは無数の蛍。願っても得られない光景だった。
そして3番目がこの夜。子どもの頃、父の転勤で北海道の山奥に住んで、天の川は見慣れていた私にも、この3つは忘れられない。

ショーが始まると同時に膝の息子は寝てしまったがマヌエラの舞台はその星空をも 忘れさせてしまう圧倒的なものだった。
旦那さんのギタリストであるホワキン・アマドールを相手に立つ姿は50女の貫禄。今考えると、たった30歳の女性だったとは!

夜明け前に舞台が退け、寝込んだ息子を抱えてタクシーに出会えずに道に立ち尽くす自分の姿を覚えている。

97年イベリアの蒲谷さんのグラナダのピソに泊めてもらった際日本からMADRID入りした日がたまたま同じだったので、夜電話で蒲谷さんに呼び出され、マジョール広場で飲んだ。
スペイン人並に何も食べずに強い酒を呑み続けるのに驚いたがその時の話の中で「誰か習いたい人いる?」と訊かれ、ダメモトで「マヌエラ・カラスコ」と答えた。

それが効を奏したかどうか知らないが、余り時を経ずに彼の尽力でカラスコ初来日が実現した。
クルシージョには仕事か旅のせいで、1日遅れて参加した。
スタジオに着くと、ちょうど更衣室のカーテンから顔を出したマヌエラと眼が合った。「カラスコだ!」まるでミーハーそのもの!

彼女お得意のソレアだったが、マルカールにしてもサパテアードにしても、全然複雑なことはやっていない。それでも、マヌエラ・カラスコはマヌエラ・カラスコだ。要はオーラのあるなし!

直後のクリスマス・パーティでそのまま踊った。ホテルの広い宴会場だったが、教壇のような小さなステージの前に立食パーティ用の料理が並び、その向こうにお客様がパラパラと立ち何か乗り難いショーだった。頼まれ仕事って往々にしてこんなもの。

マヌエラ自身の舞台も、もの凄くのれる時と、乗り切れない時の差が激しい。場も、バックとの連携も大事。
イベリアが1番前の真ん中の席をくれた時は、エンリケ・エストレメーニョたちが唄とパルマで一生懸命盛り上げようとするが本人もいまいち乗り切れず、近くで見ていた私たちも責任を感じて疲れてしまった。
スタジオでもあんなに近くでは座っていられないもんなあ。

スペイン人は空気の湿潤な日本ではなかなか乗りにくいのではと時々感じる。
それに最近のお勉強しよう、という若い女性の観客達!
楽しもう、じゃなくて。

いずれにせよマヌエラ・カラスコも50才、ようやく実年齢が追いついたということだろう。

23/3/05 記       
~~~あの日のアルティスタ(18)マヌエラ・カラスコ
<ビエナル シリーズー4>

日本でスペインの闘牛が開かれたことが一度だけある。
ライブドアではないが、新規の会社の入社式として行なわれ招待された。
代々木競技場あたりだったか…

勘違いした動物愛護団体みたいのが、会場前で気勢をあげていたが牛は殺されなかった!血ひとつ流さずに元気に退場して行く牛を見送りながら泡のないビールみたいに、間抜けな気分になった。

木曜の夕方にテレビでスペイン全国のどこかの闘牛場の録画放映があり贔屓の闘牛士を探すのをスペイン滞在中は楽しみにしているのだが最初に生で見たのは、84年セビージャだった。

闘牛場入り口で、係員のおじさんが5歳の息子を見て、一旦は渋ったが遠い外国から来たということで入れてくれた。が、その意味がわかるのに時間はかからなかった。
映像で見る限りでは格好いいマタドールのムレタさばきや‘真実の瞬間’など美しい場面ばかりだが、実際の闘牛は人も馬も槍やら剣やらで寄ってたかって1頭の牛をやっつける。真実の瞬間の後も、ナイフでとどめを刺す。死んだ牛を引きずって退場する。動物の血の臭いまでして来る。見ると、息子の唇は紫色だった。3人のマタドールが2頭づつ全部で6つあるのだが、2つ見たところで慌てて外に出た。

日本での闘牛まがいの第2部はフラメンコで、ブランカ・デル・レイが演じた。

84年のスペイン滞在中はMADRIDのグラン・ビア近くのアラブ風インテリアが異国情緒たっぷりのトーレス・ベルメハスなど多くのタブラオに行ったが、トップはやはり、セビ-ジャのロス・ガジョスとマドリのコラール・デ・モレリアだった。

コラール・デ・モレリアのスター・ダンサーがBLANCA DEL REYである。マントンが生き物のように動くソレアを舞う姿はフラメンコ界の越路吹雪だった。その後訪れた時は公演旅行で留守だったりして久々の再会が日本だった。

代々木競技場の観客席から、舞台前の広場に出て来てもいいというアナウンスがあったので、もちろん生徒と一緒に下に降りた。
カンティーニャだったか、やはりマントンを肩に椅子に掛けていた彼女が、サリーダで立ち上がり見得を切りながら歩き出した。
‘BLANCA!’ ハレオを掛けた。踊り手なら、あそこは絶対ひと声欲しいタイミング。 こころなしか少し微笑んだように見えた。

3/5/05記   
~~~あの日のアルティスタ(19)ブランカ・デル・レイ  

最初に習ったスペイン人マエストロはマノロ・マリンである。
前回書いた1984年セヴィージャでのことだ。

75年に地元のバレエスタジオでスペイン舞踊を始めた頃は情報も乏しく 多分小島章司氏も岡田昌巳さんもスペイン留学中
小松原庸子さんは教え始めていらしたのか…とにかく、フラメンコを実際に見たことがなかった。

83年の暮に池袋の佐藤佑子さんのスタジオでエンリケ坂井氏のギターを聴いてコンパスを知った時、一度スペインに行って、今現在スペインでフラメンコがどんな風に踊られているのかを見なくてはと思った。

子どもが小学校に入る前の幼稚園年長の時がチャンスだった。
スペインに行って来たばかりの橋本ルシアさんに喫茶店でもらった情報と近所の日本人と結婚したスペイン女性に少し習ったスペイン語を頼りに84年秋旅立った。

MANOLO MARIN のスタジオは今あるロドリゴ通りのもっと東側にあった。板張りの小さなスタジオは所々穴があいており、犬ののどかなほえ声が聞こえた。
マノロにいきなり個人レッスンを頼んだ。まだ良くコンパスを把握していないブレリアをスタジオ伴奏をしていた鈴木尚さんにどこから入るか聞きながら!
まだ生徒の少なかったマノロは、椅子におとなしく座って見ている息子に小さなカスタネットをくれた。スペインでは青年でも子どもを構ってくれる。

このスタジオではわりさや憂羅さんにも会い、オスタルを紹介してくれたり彼女がホームステイしているヒターノの家に連れて行ってくれたりとお世話になった。
ヘレスにも一緒に行った。(収穫祭をしている頃だと思ったがタクシーの運ちゃんも知らなかった。)

イサベル2世橋のトリアナ側のたもとにはメルカード(市場)があった。今の素っ気無いのじゃなく、もっと活気溢れた大きな市場で脇からは河に降りられた。
この市場で毎朝私はカフェ・コン・レーチェ(カフェ・オレ)を息子は牛味牛乳(牛の味が濃厚な)を飲み、葡萄や洋ナシを買い込んだ。
毎日のレッスン後は決まったバールで私はビール、息子はアイスクリーム。食事をする何軒かの店とも顔馴染になった。

その後、2002年のビエナルの前に恵比寿のイベリアのスタジオでマノロのクルシージョがあった。シギリージャだったがあの頃より簡単に取れるはずだったのに何のことはない、同じ足の運びができなかった。進歩ないなあ…取り難いパソは変わらない。癖の問題。
おまけにマノロに「おまえたち、アヴァンサード=上級クラスだろ」と言われ、皆くさる。こういうのは禁句!

セヴィージャでも各地のフェスティバルでも振付を何十年もやって来て、マノロも疲れたんだろう。
94年の夏、田中美穂さんのお世話で東北沢のアモール・デ・ディオスでタンゴとブレリアのクラスがあったが、あの時の首にタオルを掛け酒焼けしたような赤い顔で 酒瓶代わりの水のペットボトルをぶら下げて踊る、狸の置物みたいなマノロの方が好きだ。

24/3/05 記         
~~~あの日のアルティスタ(20)マノロ・マリン
<回顧シリーズー1>

 1984年にはスタジオ・アモール・デ・ディオスはMADRIDの地下鉄1号線のANTÓN MARTIN 駅近くにあった。
3階は一つ星のオスタルになっていて、そこに滞在した。

ベッドのマットレスは波打ち、急に寒くなったのも災いして風邪をひいた。廊下もドアも垂直と水平を無視した造り、夜は暗くなる継ぎ接ぎだらけの廊下の先の共同トイレの便器に便座はなくコインを投入するシャワーも お湯が出るか疑わしかった。

おまけに少し前にそのシャワーである黒人が首を吊ったと教えられた。さらに、「先日ピストル強盗が侵入した。こんな安いオスタルに入ったって盗むものもないでしょうにね」だって!

昼食と夕食がついて1泊2000円位だったが、夕食は10時半だった。(夏時間が終わった日は知らずに食堂に行ってからさらに1時間待たされた!)
オスタルの女主人が廊下で私の5歳の息子の名を叫んで起こしに来るのが慣わしだった。
ある晩、熟睡していたので起こさずにひとりで食堂に行ったらセヴィージャで別れたわりさや憂羅さんと再会、息子の分の夕食を分けてひとしきりおしゃべりし部屋に戻ってみると、朝の残りの硬くなったパンを手に、ほっぺに涙をつけていた!(外から鍵を掛ける方式だった。)思わず抱き締め、憂羅さんの持っていたおにぎりをもらって機嫌を直したが、あんな可哀想なことは後にも先にもなかった…

その息子を連れて下のスタジオへ見学に行った。名物教師のシロー、タティ…シローは階段の下で遊ぶ息子を見て「それが問題だな。」と言った。
タティは戸口で見ていた私に中に入るように言ってくれたが「廊下に子どもがいるから」と答えた私は、スイッチに触ってクラスの電気を消してしまった!

マリア・マグダネラ(本名?昔からいわれを知りたかったのだけど)のテクニカ・クラスにはソファがあり、息子はおとなしく座っていられたので、レッスンを受けた。
マリアは長い棒を持って椅子に腰掛けたまま、助手が見本を示す。月~金まで、2日はサパテアード、ブラッソとパリージョ、ブエルタ。
サパテアードは下のさほど広くないスタジオで数十人腕が触れ合わんばかりに立っていろいろな基礎の足を徐々に速度を速めて打つ。

ソファのある部屋ではパリージョの練習ーー映画「カルメン」でヒロインが遅れて入って来るあのクラスだ。だから息子の座っていたソファはガデスとパコ・デ・ルシアが座ったソファということ!

クラスの最後ではセヴィジャーナスをやり、スペインの若い男の子と組んで踊った!BIEN ! だって。

スタジオ・アモール・デ・ディオスはその後2度ばかり引っ越したのかタティにはいつか習いたいと思いつつ、殺伐としたマドリを避けて
どうしてもアンダルシアに足が向いてしまうので、それきりになっている
最近イベリアの招聘で来日し、たくさんのバイラオーラと同じ舞台で踊ったがバタ・デ・コーラだったか、彼女の味は出ていなかったように思う。

20年以上も過ぎてしまった。

13/5/05記  
~~~あの日のアルティスタ(21)タティ&マリア・マグダネラ
<回顧シリーズー2>

フラメンコをやっていると言うと、小松原庸子あるいは長嶺ヤス子の名があがる。尤も、近頃の生徒は長嶺ヤス子の名も知らないしご本人もフラメンコはとうに止めてしまったとおっしゃっておられるが。猫好きとか、共演者を次々に恋人にするという噂も過去の話題になってしまったけど JOSÉ MIGUELとの仲も評判だった。

1986年、日本でのクルシージョなどまだめったになくアーティストの名もあまり知らないままに、ホセ・ミゲルのクラスを受けに行った。
どういう経緯でか、彼と共演した碇山奈奈さんには「斎藤さんがホセ・ミゲル?」と言われたが、確かに彼は余りフラメンコではない。
でも、情熱溢れる踊り手であることは間違いない。1日8時間スタジオで踊っているという。

結構可愛がってもらって、当てにもされ、次回のクルシ-ジョではメインに扱われた。どこかの記者のインタビューを受け「長嶺ヤス子さんの踊りに似ていますね。」と言われた。そりゃ、ミゲルの振りだから、同じ様に見えてしまうのかもしれないが 「誰かに似てる」と言われるのはうれしくない。言っている方は褒め言葉のつもりらしいが。もしそうなら その人がいれば、私は要らないじゃない!

最近その時のマネージャーの産んだミゲルの子がデビューしたらしい。
女性マネージャーって、そういうことなのね。

クルシージョ打上げのパーティは楽しかった。ミゲルにギュッと頬を寄せられた写真も残っているし、パーティで習ったばかりのブレリアを踊る私の写真もある。

津田ホールでのミゲルの公演には大きな花束を抱えて行ったがこの時の私の言葉を母が覚えていた。
「こんなホールでソロを踊りたいなあ。」実現したのは数年後だろうか。

24/3/05 記           
~~~あの日のアルティスタ(22)ホセ・ミゲル
<回顧シリーズー3>

日本野球の読売巨人のように、スター選手を集めているサッカーのレアル・マドリード、といったら、ベッカムでも、ジダンでも、フィーゴでも ロベルト・カルロスでもなく、マドリの人間にとってはRAUL(ラウル)だ。

同じ名前の踊り手がいた。
多分スペイン国立舞踊団に所属していたのだろう、端正な容姿のバイラリンだった。日本でいうジャニーズ系の。

バイラリンとはフラメンコに対し、バレエ的な踊りの要素の強いクラシコ・エスパニョール (ここではスペイン舞踊とも書いているが)の踊り手のことである。20年以上前は舞台で踊られるのはクラシコ・エスパニョールだった。

1988年に東北沢のアモール・デ・ディオスでラウルのクルシージョがあった。コケティッシュな振りのガロティンをやった。
彼の斜め後ろ(これは私の定位置)で踊っていたら、いきなり振り向いて私に 「何年踊ってる?」と怒鳴る。怒られたのかと「10年です。」と答えると「じゃ、しょうがない」という感じで向き直る。その後の様子から見て、彼の動きを私がすぐに真似たので驚いた、ということらしい。
私の自慢はその人のエッセンスをすぐ盗ること。

教え始めて初めての発表会を89年柏の京北ホールで100人の客を前に開いたがこのガロティンを踊ったのは、その時1回だけ。

まだ若かったラウルの訃報を聞いたのは、いつだったか?
彼を覚えている踊り手も少なくなってしまっただろう。

24/3/05 記              
~~~あの日のアルティスタ(23)ラウル
<回顧シリーズー4>