第1~4集を書いてから 17年の月日が経った。その間多くの舞台を創り スペインにも通った。2019年春にヘレス・フェスティバルに顔を出して以来コロナのせいで渡西できていないが。

当然 後日談みたいのも多々ある。
例えば2009年のヘレスだったか ホテルのロビーで宿泊なさってるらしい マチルデ・コラルを見掛けた。
駆け寄って「昨夜のマントンさばき お見事でした。教えていただいたカンティーニャ 生徒たちが踊っています。」と報告。嬉しそうに迎えてくれた。あのカンティーニャ 
世界中の生徒たちが踊っているんだろうなあ。

一番書きたいのは クリスティーナ・オヨス。
アントニオ・ガデスの「カルメン」を観て以来 憧れの人!1992年バルセロナ・オリンピックの開幕を飾ったのを契機に日本にもフラメンコ・ブームを引き起こした張本人だ。
いつか直接教えを請いたいと思っていたら 小松原庸子さんが実現してくださった。
庸子さんのスタジオで3,40人集まったかオヨス自身は ほとんど見ているだけで 若い男が踊って教えた。
まさにオヨスの香りのする振付だった。私は覚えが早いせいか オヨスに選ばれて最前列の真ん中で踊らされ 緊張した。
この時のソレアは直後2012年の最初のアルハムブラ・ライヴで踊っている。

9/8/2022 記 
後日談(1) ~~~~~ クリスティーナ・オヨス

20代の頃 周りの男たちの誰とも一緒に暮らせそうになかったので ああ 所詮どの男も母親が生んで育てたもの じゃ私も男を一人産んで育ててみるか と思い 結婚した。 大きな誤算は半分(私の場合 半分以上~大半)父親側の遺伝子があったことで 思ったようには育たず 勝手に育った。
その息子も今では小学生の 女の子の父親になったが。

伝説のバイラオール ファルッコの孫である ファルキートについては以前に枕で触れたが 何年だったか ようやく再来日し
クラスも催したので受けに行った。ブレリア クラス
皆 苦労しているようで 一番かっこいい抜けの部分で 気づいたら私とファルキートだけが 同時に抜けて 二人で顔を見合わせた!
あのヒターノそのものの苦み走った笑顔でーー快感だった!!

以前に親子シリーズをいくつか書いたが ファルキートの母でありファルッコの娘であるファルッカに習うことは宿題だった。
小松原庸子さんのスタジオで クリスティーナ・オヨスの何年後かにクラスがあったが この時は散々だった。
ヒターナそのものの彼女の音の創り方は まるで論理的でなく 私の頭は混乱しっ放し。
お手上げだった。得てしておばさまの受けは余り良くない。
若い男とは相性いいんだけどな。。。あらら

一箇所だけ 取り難いパッソを一人ずつやらされて 私が出来た時“Hay que limpiar” と言われた。「磨きを掛けなくちゃね」くらいの意味だと思うが キャリアも後半と思っていた私は今更と怪訝な顔をしていたのだろうか 側にいた鈴木敬子さんに「訳せ」と言う。
昔からよく隣でクラスを受けていた彼女も困り顔。ファルッカは私のこと経験は浅いけど素質のある若い女とでも思ったのだろうか?

2006年のヘレスか ファルッコ ファミリーの日のフィナルで舞台をさらった5,6歳の男の子 結局ファルキートの末弟カルペタだとわかったが してみると ファルッカって意外に若かったのね。
私と余り変わらないと思っていたのに。。。

因みに今年のアルハムブラ・ライヴvol.5 で踊ったロマンセの
ギターの無い足の部分とブレリアに彼女のパソと振りを拝借してある。

10/8/2022 記
後日談(2) ~~~~~ ファルキート&ファルッカ

ヘレスのフラメンコ・フェスティバルに通い出したのは エッセイ集を書いた翌年の2006年である。それまでセビージャ(セビリア)のビエナルに1998,2000,2002,2004,2006年と通ったが セビージャも都会化し過ぎて味気なくなった頃 ヘレスの田舎臭さが魅力に映った。路面電車はおろかバスも市内では余りなく曲がりくねった狭い石畳の路をひたすら歩く。

セビージャから美しい港街カディスに行く途中にあるヘレス・デラ・フロンテッラは葡萄畑に囲まれ シェリー酒の産地(英国人がヘレスをシェリーと聞き間違えた)であると同時に フラメンコと馬のダンスの故郷だ。ウィーンなどで見られる白馬のダンスの発祥の地である時 出番前の女性騎士の雄姿に心奪われた。

ここで毎年2,3月に開かれるフラメンコ・フェスティバルではマエストランサという劇場を始め いくつかの劇場やアルカーサル(アラブ時代の城)やボデガ(醸造所)で毎夜 唄・ギター・踊りが供されると同時に フラメンコのクラスが7日間単位 朝昼晩2週間にわたって開催される。

2006年に行った時は 1998年アナ・マリア・ロペスのスタジオに突然行って惨敗したヘレスのブレリアを もう一人の大御所Angelita Gomez に習うのが第1の目的だった。他のクラスでは中級なのだが(中級と言っても上級。プロや教えてる人たち)アンヘリータのクラスは初級だった。ヘレスのブレリアに関しては初心者なのだからと思ったがアメリカのおばさんやらヨーロッパの北の男性やら大半は素人さんだった。

それまで踊っていたセビージャやグラナダのブレリアは 12拍が1コンパスという単位になる。12,3,6,8,10拍目にアクセントが来る。ところがヘレスのブレリアは 6拍単位でぐるぐる回る。ギターもグラナダのシビアな乾いた音と違って何だかぐたぐたしている。最初はナンダコレと思うが 嵌まると極めて心地良い!
踊りも唄のどこから入ってもいいと言うが ここかと思って入ると「そこじゃない」と言われる。「入る所が解らない」と言うと「あなたが?」と言われたが。

ある朝 教室になっていた甘い香りの残るボデガでの第一声に「アンヘリータ・ゴメス通りが命名されました」と本人からの報告があった。「おめでとうございます」と拍手で祝ったが いまいち皆の反応は薄かった。もう少し後の日だったら英訳したのになあ。
まだ自覚が無かった。

この時は1週目にメルセデス・ルイスにタラントを習ってレトラのある振りは気に入って今でも使っているが 実は夫と一緒にヘレスに渡りピソを借りて住んでいた。フラットの一軒家のようなのが3つに別れていて私たちの居住区は狭い玄関の左手に寝室 右手に台所と風呂。クラス中に夫はメルカード(市場)に買い出しに行き 毎日エビやポテトを茹でて プロパンガスを1週間で使い切ってしまい呆れられた。

ブレリアのクラスにフラメンコを余りやっていない日本人がいて夫婦でピソ(アパート)を買って住んでいるが 日本との往復がしんどくなったので手離したい 買ってくれないか と言う話があった。
実は少し前 コスタ・デル・ソルへの移住が日本でも話題になっていた頃 そういうこともありかなあ とちょっと考えたこともあったのだが 常時6,70人の生徒を抱えていたし 夫もまだ仕事をしていたし 頼りにならない弟しかいない身としては 両親のことも気掛かりだし と思っている内に沙汰止みになってしまった。
こういうことは 60になる前に実行しないと無理。

いずれにせよ この辺りから私のフラメンコも力が抜けて来たのかーコケットリーはお手のものだからなあ。

11/8/2022 記
後日談(3) ~~~~~  アンヘリータ・ゴメス 

大学生の頃は JAZZ喫茶に通っていた。20代後半にフラメンコと出遭い 40代前半でタンゴ・アルヘンティーノも嗜み クラシック音楽に目覚めたのは2012-13年頃だ。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲とオペラから入った。

劇場通いは この2年ストップ状態だったが 一人で行って隣の席の人と会話を交わすのが好きだ。情報交換もできるし。
日本では大体無難に女性と話すが 2019年のバルセロナでは 隣席の紳士に話しかけると 丁寧にいろいろ説明してくださった。
ヘレスのフラメンコ・フェスティバルの帰りだと言いカルメン・アマジャのバルセロナ物語の話などすると昔バルセロナ周辺の紡績工場の女工として アンダルシアから貧しいヒターナたちを呼んで来た。それでバルセロナ周辺にもフラメンコが定着することになったそうだ。驚き!!と納得。

2009年のヘレスのフラメンコ・フェスティバルの劇場で右隣にグワッポな若い男性=いい男が来たので話しかけた。
メキシコから来て ファルーカのクラスを取っていると言う。(クラスを受けていると その間の席を無料で指定される。JaponとMexicoがアルファベット順で近いから隣?)
私の受けているクラスにメキシコから来ている女の子がいると話したら一緒に来ている友達だということで話が盛り上がった。

この時受けていたクラスというのが 昔そのマントンのソレアに憧れたブランカ・デル・レイ。25年経って念願が叶った訳だが 優雅なマントン(刺繍入りの大きく重いスカーフ)捌き
は少し教えてくれたものの 踊りはヘレス出身でもないのにヘレスのブレリア風でお茶を濁された感じ。もう若くはないのだし 教えることに情熱を失っても仕方ないが。。。

この時は1週間だけで並木通りに面したホテルに滞在した。(マチルデ・コラルをロビーで見かけたのもこのホテル)
ある晩 ボデガでトマティートのギター演奏があったのもこの時ではなかったか。
Tio Pepe の大きなボデガと アルカーサル(城壁の無数の穴に鳥の巣がある)に囲まれた高台の広場で夕涼みするのが好きだ。
夜 ボデガ(醸造所)の樽の積んである広い空間に椅子を並べヘレスのグラス片手に 何人かの男たち(ギターやカホンや唄 踊り手)に囲まれたイエスのような図柄でご機嫌に音を紡ぎ出す貴公子トマティートに酔い痴れた。
宴終わって外に出ると大聖堂の上に白く輝く月ーー最高の宵

12/8/2022 記
後日談(4) ~~~~~ブランカ・デル・レイ  & トマティート

イスラエルのところでも書いたが このテクノポップ全盛の時代にあって 若いフラメンコ達の音の作り方が 細かく 機械音のように刻むようになったのには不思議はないだろう。
ロシオ・モリーナが出て来た時は その正確無比な刻み方に度肝を抜かれたが。小さなアバニコ(扇子)と戯れるグヮヒーラが欲しくてクラスにも出てみたが やったのは何だったか?

女装で踊るのが好きなマヌエル・リニャンのアレグリアスクラスには2014年ヘレスで参加し コロナ下 5月に繰り下げて開催された2021年のオンラインクラスではグヮヒーラを受け 現在も格闘中だが やはり音の取り方が違う。

子育て中スペインに行けなかった身としては 昔習いたかったマエストラも数人いるし 現代台頭して来た若い踊り手達にも興味がある。何でそんなに多くのアーティストと接したいのかと言うと そうやって受けた刺激を私の中に蓄積し 頭と身体を通して濾過し 自分の曲を毎年創って来たのだ。元々私の中には無いものだから。私のやって来たことはそういうことだ。

で1984年5歳の息子を連れていたために習えなかった一人 ラ・タティのクラスが原田和彦氏のJPカルロスが提供してくれるということで東京タワー近くの草野桜子さんのスタジオに出掛けた。いくつかある他のクラスには生徒が集まったのだろうが私の受けたのはロマンセだったか ちょっと特殊な曲だったので若い子と私の二人だけ ほぼプライベートレッスンだった。
前回の復習をちゃんとやって来る人は珍しいとタティはご機嫌クラス後の更衣室で話していたら 私は彼女の1歳下ということが分かり(もっと若いと思っていたらしい)お互い孫の話になり和気藹々だった。長くやっていると面白いこともあるのね。

12/8/2022 記
後日談(5)   ~~~~~~ ラ・タティ

ざっと数えてスペインには14,5回行っているが 日本からアンダルシアに行くのは簡単ではない。
1984年に行った時はアラスカ経由だった。空港に大きな白熊の剥製があった。その後モスクワ経由では収容所のような暗い通路をいかつい兵士の様な女に歩かされた。いつからかイベリア航空も日本に来なくなりブリティシュやら他の航空会社でロンドン・パリ・アムステルダムなどで乗り継いだ。アムステルダムでは通路を延々と歩いて倉庫のような端でマドリッド行きだかセビージャ行きだかを待たされた。ローカルそのもの。

ロンドンやパリでは成田から羽田へのように 国際空港から国内(欧州内)空港にバスで移動させられる。さらにマドリッドかバルセロナからセビージャやヘレスに国内線かAVEで移動
しなければならない。一日では無理なのでどこかで1泊することになる。この空港近くのホテルというのが曲者。送迎バスの時刻も巡回順も乗り場も不確かで 人っ子一人いない深夜のマドリッド空港の外で途方にくれたことがある。まだ携帯電話の無い時代!
またある時は夫のスーツケースが出て来ず探していて 予約したホテルに辿り着いたのが0時過ぎ。満室と言われロビーのソファに倒れ込んだ。この時はフロントマンが電話をかけまくって空室のあるホテルを探してくれたが。

心と時間に余裕のある時は パリやマドリッドの市内に2,3泊して遊んでから行く。ジベルニーやらプラド美術館やら。

一方スペインからアーティストを呼ぶのも大変だ。ビザの問題もあるし。1995年ラファエル・アマルゴを招いた時はタンゴ・アルヘンティーノも仲良くなったブエノスアイレスのダンサーと踊りたかったのだが呼び屋さんとの交渉は困難だった。

アーティストを招聘して共演する場合 出演料以外に往復の航空代滞在費・食費・移動費・レッスン代と相手の音合わせのスタジオ代&ギタリストと唄い手代も こちらが持たなくてはならない。
それに会場代と衣装代 音響照明舞台監督とスタッフ代・・・

2002年アレッハンドロ・グラナドスと接触した時頭の中にあった企画は 中学時代の愛読書エミリー・ブロンテの「嵐が丘」をフラメンコにすることだった。ヒースクリフはヨークシャに連れて来られたジプシーの男の子。アレッハンドロの荒々しさにぴったりだった。でも諸条件が整わず断念。翌年の米国によるイラク攻撃も阻止出来なかったし。これ以降共演は考えなくなった。
スペインから呼ぶと勉強にはなるだろうが相手の振付を相手の呼吸で踊ることになる。それより自分の振付けで自分で舞台を創る方が面白かった。知名度などは元より関心がなかったし。

そんな中1990年頃からか 色んな人が色んなアーティストを招んでくれて経費捻出のためにクラスを開いたので 声がかかったらどこにでも出掛けて行った。そうやって習ったのが
20人くらいになるだろうか。

その一つ 東京のさるスタジオで ドミンゴ・オルテガのクラスがあった。昔1年ちょっと習った佐藤佑子さんや斎藤克己さんなど5,6人のクラスだった。ある時ドミンゴが次の振りを
しようと鏡に向かったら後ろに私しかいなかったことがある。他の人は水を飲んだり汗を拭いたり? クラスには流れがあり指導者の呼吸があるのだから まずそれに乗らないと始まらない。
このクラスは余り満足していなかったようで 最終日にこんなことがあった。
主催者が「今日で最後ねえ~」と少し甘えるような口振りで言った。「そうだねえ。寂しいね」みたいな返事を期待していたのだろう。返って来た言葉は「早く金をくれ」だった!
明日はもうスペインに発つから今お金をもらわないと夜のクラスの前に秋葉原で買い物が出来ない ということらしい。
得てして こんなもの。。。

13/8/2022 記
後日談(6) ~~~~~ ドミンゴ・オルテガ